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光蓮寺について

​光蓮寺のご本尊

『東方薬師瑠璃光如来』通称お薬師さんといわれる仏様です。

像の高さ八九・四センチメートル、衣文の彫りは浅く顔は丸顔で温和な表情をしています。

平安時代後期の作で桧の寄木造、作者は不明とされています。

昭和54年三重県の重要有形文化財に指定され、平成4年本堂の落慶にあたり、京都国立博物館にある国宝修理所で東大寺大仏師の称号を持つ故小野寺久幸師の手により解体、組立の大修復を行い現在に至っています。

東大寺大仏建立に尽力した行基によって開かれたと言われる光蓮寺の本尊を千年以上も後に東大寺大仏師の手によって修復されるという奇跡は正に仏縁というものを感じずにはいられません。

薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと云われています。

そこで、諸々の病気治癒、健康長寿、災難除去、子授祈願、安産祈願、等の現世利益があると信仰されています。

​光蓮寺の歴史

天平8年(736年)東大寺大仏建立に尽力した行基大僧正が地方を巡錫の途、この笠間郷に数年留錫(滞在)し、その折にこの笠間山光蓮寺を開創した。と伝えられています。

また、この門前地区の氏神『鳥取神社由緒書』によると、「永享10年(1439年・室町時代)春に、伊勢国司北畠中納言教具は、当時北勢地域に攻め入っていた美濃の土岐大膳太夫(土岐頼康)の軍勢と笠間郷地域周辺で戦い、矢傷を負って金井(地名)の薬湯「萩の湯」に浸かって湯治し、暫し療養とあり、その際笠間郷鳥取神社に参篭し、多芸の本拠までの帰路安全祈願の為、剣の一腰、鰐口壱個を奉納し、鳥取神社の別当寺院であった光蓮寺にも黄金佛壱体を寄進せり」。とあり、この黄金佛並びに鰐口はそれぞれ現存しております。

別の古文書には、室町時代の応永の頃に起こった火災で、本尊だけを残して寺は焼失。 天文13年(1544年)、近江の観音寺城主であった佐々木六角高賴の四男、梅戸左衛門高実が田光城の支城の梅戸城主となり、(北畠氏に属し、国人頭として笠間郷を掌握していた)心清和尚に帰依し、薬師如来を本尊として再建したと伝えられています。

その後また荒廃してしまいましたが、貞享5年(1688年)に尾州名古屋の中島庄八忠義が開基となり、現在の地にお堂を再建しましたが、老朽化したため、平成4年に笠間郷の子孫によって再び建て替えられました。 現在は、第十六代目の住職が勤めています。 

また、天正十一年に豊臣秀吉が長島の瀧川一益戦略の際に陣を張り、光蓮寺を大切にするように制札を出したと伝えられています。

​当寺院と檀信徒様との関係

あなたが必要な時にそばに寄り添うことができるお寺でありたいと考えています。

葬儀・法事・永代供養などの新しくご仏縁をいただきましたら、その後ご信徒様としてのお付き合いが始まり、年忌法要等のご案内をさせていただきます。

お寺のこと、法事のこと、お墓のこと、それだけでなく、何か困ったことがあればいつでもお気軽にご相談ください。勿論何も困ってなくてもお話がしたいときはいつでも大歓迎ですよ。​

​住職の意外な横顔

光蓮寺の住職という一方で、長年介護の仕事に携わり、退職後の現在は自身で立ち上げた福祉タクシーを運行し、車が無いと生活のしにくいいなべ市周辺で、お年寄りや身体の不自由な人たちの暮らしを支えるインフラの一端をになっています。

副住職の紹介

光蓮寺は京都にある大本山妙心寺の末寺になります。妙心寺の末寺は全国3千余カ寺にのぼり、それらのお寺を取りまとめる妙心寺派宗務本所というところに勤めています。

​毎日いなべ市から京都まで通っています。

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